お寺の歴史

明元寺のお話

明元寺は山号を普照山(ふしょうざん)と言い、鷹取山の麓、永満寺の地に400年以上昔から続く浄土真宗本願寺派(“お西”とも言います)に属するお寺です。
明元寺横の道路が、昔は鷹取山の頂にあった山城・鷹取城へと続く道(現在はたかとり霊園さんに向かう道)でした。またこの坂の途中には「鉄砲町」や「桜の馬場」などの地名が残っており、初代鷹取城主である伝母里太兵衛屋敷跡もあることから、この明元寺付近は鷹取城の城下町であったと考えられています。明元寺が建立されたのはちょうどその頃の年代であったようです。
現在は城も屋敷もその姿を残してはいませんが、明元寺は当時の人々の願いによって建立され、また多くの先人方の支えのおかげで現在もその教えが受け継がれております。

本堂を中心とした自然に囲まれた境内は、季節に応じて様々な姿を見せてくれます。春には梅や桜、初夏の藤の花やアジサイ、ホタル、秋には紅葉、冬は山眠る中で静かに澄んだ空気など、お参りに来られる際にはぜひともこの自然を感じていただければと思います。

明元寺の本堂

明元寺にお越しの際は、どうぞまず本堂に上がりお参りをして頂きたいと思います。そこで今回は、浄土真宗の本堂の特徴についてお話させて頂きます。
浄土真宗のお寺の本堂に正面から入りますと、まず手前の空間と奥の一段上がった空間とで異なる作りがされています。手前の空間を「外陣(げじん)」と呼び、これは法要などでお聴聞(法話を聞く)する際に座る場所です。明元寺では普段から外陣には椅子が置いてありますので分かり易いかと思います。
そして奥の一段高くなった部分を「内陣(ないじん)」と呼び、ここに阿弥陀仏の仏像が安置されていますが、ご本尊と呼びます。そしてその横には浄土真宗を開いて下さった親鸞聖人(しんらん しょうにん)等の掛け軸がかけられています。ここは阿弥陀様のお浄土を表現した空間であり、法事や法代の際には僧侶がお経を読み儀式を行う空間です。なお、普段はこの「内陣」には立ち入りが出来ませんのでお気をつけください。
この「外陣」と「内陣」という空間のバランスに浄土真宗の本堂の特徴が表れています。浄土真宗では、本堂全体のバランスとして外陣のスペースの方が広く作られています。本堂の半分以上が外陣です。これは本堂という場所がお聴聞の場であるという考えからです。 つまり阿弥陀様の前に座らせて頂く本堂という空間は、けっして修行をする場ではなく、お経やご法話等を通して、阿弥陀様の願いを聞かせていただく場なのです。

中心は阿弥陀様

浄土真宗のお寺の本堂に入りますと、中心には阿弥陀様の像が安置されています。”中心”と言いましても実際には本堂のど真ん中にあるわけではなく、本堂正面の入口から入れば奥の方に安置されています。ここで”中心”と呼ぶのは現実の配置的な意味ではなく、宗教的な意味での”中心”です。つまりお寺という建物全体が阿弥陀様のみ教えを聞かせて頂く場でありますから、阿弥陀様を中心とした空間とみていきます。
ですから本堂へ上がりお参りする際には、「私の前に阿弥陀様がいる」のではなく、「阿弥陀様の前に私が座らせて頂く・お念仏させて頂く」と、自分中心ではなく阿弥陀様を中心とした意識で見ていくべきでしょう。
私達は普段、”私(自分)”を中心に物事を考えます。厳しい言い方をすれば、自己中心的な言動ばかりで、その心を捨て切れないのが私です。しかしそのような心を捨てきれない私が、お寺の本堂にお参りした時には自然と阿弥陀様を中心とした見方をいただいているのです。そこには普段の生活とは異なる新しいものの見方、心の領域が開けてくると思います。

天井絵

明元寺の本堂の天井を見上げると、何枚もの天井絵を見ることが出来ます。様々な動物や花の絵等、その数は64枚にもなります。その中の一枚、ちょうど本堂の中央部分を見上げると、描かれた年代である「嘉永元歳」という文字と、寄進して下さった方々のお名前が残されています。
この嘉永とは江戸時代の末期、西暦で言えば1848年頃に当たりますので、170年近く前から明元寺の本堂に天井絵として飾られていることになりますが、その色彩はまだまだきれいに残っています。長きにわたって、多くの方々のお念仏の声がしみ込んだこの本堂と天井絵です。明元寺にお越しの際は本堂に上がってお参り頂き、天井絵もご覧になられてはいかがでしょうか。もちろん本堂に入られた際は、まずはご本尊の阿弥陀様に手を合わせていただきたいと思います。

永満寺という地名

当山明元寺のある地域は「永満寺」と言います。永満寺の明元寺というややこしい住所と名前のせいか、ときどき勘違いして「永満寺というお寺はこちらですか?」と訪ねて来る方もおられます。ちなみに永満寺地域にはもう1ヶ寺、西福寺さんという曹洞宗のお寺もありますので、そちらも住所等お間違えの無いようにお気を付け下さい。
地名の由来は、昔鷹取山に永満寺という名の天台宗の寺院があったことから、その周辺の村を永満寺と呼ぶようになったということです。しかし今現在この「永満寺」というお寺は存在しません。戦国時代の頃、鷹取城の焼き討ちの際に同じく焼失したとされており、お寺があった正確な位置は分からないままです。その後戦国時代も終わり、現在は永満寺という村の名前として地名だけが残っているというわけです。
そして1600年頃ここ永満寺村に明元寺が建立されてから400年以上、明元寺は火災による焼失等大きな事故もなく浄土真宗のみ教えを受け継いで参りました。これからもみ教えはもちろんですが、歴史ある本堂を中心とした建物もまた大切に受け継いで参ります。

浄土真宗

浄土真宗にもいくつかの派がありますが、その中で明元寺は浄土真宗本願寺派(お西とも呼びます)という宗派に属する寺院です。地域によって、お寺の数も各宗派の割合等も変わりますが、ここ直方市内では浄土真宗、それも本願寺派(お西)の寺院が多いようです。
歴史的な様々な事情で宗派が分かれていきましたが、しかし根本的な教えは皆同じであり、親鸞聖人を宗祖(浄土真宗を開いて下さった開祖)と仰ぎ、阿弥陀様のはたらきによりお念仏一つで私が救われていくみ教えです。お念仏申しながら、必ずお浄土に生まれ、仏と成るいのちであるぞという阿弥陀様の願いを聞かせて頂くのです。この、ご法話を聞くことをお聴聞と言い、浄土真宗ではお聴聞を続けていくことが大切であると言われています。
明元寺でも様々な法要ごとに法話を聞くことが出来ます。もちろんご法話の前にはお経も読みますが、間に休憩を何度かはさみながら全部で2時間前程の時間です。お墓参りのついででも構いません、いつもと違うお寺という環境の中で、阿弥陀様のお話を聞いてみてはいかがでしょうか。

西本願寺と末寺

明元寺は「浄土真宗本願寺派(西本願寺、お西とも)」という宗派に属しているお寺です。全国には本願寺派だけでも1万ヶ寺と言われるほど多くの寺院がありますので、本山である京都の西本願寺をトップとした大きな組織の中で各寺院は活動しております。
その組織の中で、「教区(きょうく)」という各都道府県規模の大きな枠組みで分けられ、それを「組(そ)」といういくつかの地域ごとに分割します。さらにそこから枝葉のように各寺院があるのでこれを末寺と言ったりもします。
ですから明元寺の所属を正確に表せば、「浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは) 福岡(ふくおか)教区(きょうく) 鞍手組(くらてそ) 明元寺(みょうがんじ)」となります。ちなみにこの中で「鞍手組」とは、昔の鞍手郡と呼ばれた地域で、現在の直方市・鞍手郡(小竹町を含む)・宮若市・北九州市八幡西区の一部をまとめた地域にある36ヶ寺の本願寺派のお寺の組織のことです。明元寺は、自分のお寺の活動はもちろんですが、主にこの鞍手組としての活動も並行して行っております。
 一寺院ではなかなか出来にくい活動(たとえば本山・西本願寺への団体参拝やさまざまなご講師を呼んでの研修会等)は組全体の行事として行い、逆に組という組織では手の回らない部分(各寺院それぞれの法要、行事)はそれぞれの末寺が行うといったように、互いに支えあう形で活動しています。