『仏説無量寿経(大経)』について②
前回書きましたように、この『仏説無量寿経』の中で最も大切な部分は阿弥陀様の「本願」が説かれる一段です。この本願について少しお話させていただきます。
『仏説無量寿経』によると阿弥陀様は仏と成られる以前の修行時代には、法蔵(ほうぞう)菩薩というお名前でありました。そして師匠に向かって、仏と成るために48種の誓願をたてられました。これを(阿弥陀仏の)四十八(しじゅうはち)願(がん)と呼び、法蔵菩薩自身が目指す仏の具体的な能力やすがたを表明していくかたちで誓われます。そしてその中で第18番目に誓われるのが、我々が「本願」と呼ぶ誓願です。
少し堅いかもしれませんが、せっかくなので下の漢文の書き下しとともに現代語訳をご紹介します。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」
「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」
親鸞聖人はこの第十八願こそが、四十八願全体を一つにおさめた阿弥陀様の根本の誓願、つまり阿弥陀様のおこころであるとみて「本願」と呼び大切にされたのです。
そして法蔵菩薩は果てしない修行の末、本願の通り全ての念仏するものを必ず仏と成らせる阿弥陀仏と成られたのです。私が「ナンマンダブツ」とお念仏するところに、すでに阿弥陀様は届いて下さっています。そして阿弥陀様が既にいて下さるということは、修行時代に誓われたお念仏による救いがもう完成されたということであり、私は必ずお浄土に生まれ仏と成る身と定まったということなのです。
四十八願、そして本願が成就したという教えを通して、もう阿弥陀様の救いのはたらきは私を包み込んで離さないのだと聞かせていただく。『仏説無量寿経』に説かれる本願とは、お念仏ひとつで私を救おうと届いて下さる阿弥陀様の救いのはたらきを教えてくれる教えです。