6月法話

『正信偈(しょうしんげ)②』

日常のお勤め「正信偈(しょうしんげ)」②

 今月より、日常でお勤めする機会も多い「正信偈」の中身について、その表面だけではありますが、紹介・お話をさせていただきます。

 まず「正信偈」の一番はじめに示される言葉が、

帰命無量寿如来(きみょう むりょうじゅ にょらい)

南無不可思議光(なも ふかしぎ こう)

の2句です。特にはじめの「帰命無量寿如来」の句は、法要などではまず初めに僧侶が単独で読むことが多い部分ですので、これからお勤めがはじまるぞという印象の方もおられるかもしれません。

この2句は親鸞聖人にとって自身の喜びを表された言葉であり、信心表明ともいえる部分です。わずか1行2句の短い言葉ではありますが、その中には「私は阿弥陀様をいのちの拠り所として生きていきます」という決意のお心が込められています。「正信偈」を始めるにあたり、何よりもまず、我がいのちの拠り所は阿弥陀様でありますという表明・自身のお心を示されたのです。

 それではまず言葉の意味を見ていきますと、この2句に出てくる「帰命」と「南無」とは同じ意味の言葉です。インドの「ナマス」という言葉を中国で漢訳した場合は「帰命」、その音を漢字に当てはめた訳し方の場合は「南無」となります。ここでの意味は、私のいのちの全てをお任せしますという事です。

では誰におまかせするかと言えば、次に続くそれぞれの言葉、「無量寿如来」と「不可思議光」です。これらは共に“阿弥陀如来” のお徳を表した別名です。「無量寿如来」いう表現は、阿弥陀様にはお慈悲のはたらきに限りがないというお徳が具わっていることを表しています。そして「不可思議光(如来)」という表現は、仏様の智慧のはたらきに限りがない、至り届かない場所はないのだというお徳を表した呼び名です。この2つのお徳が阿弥陀様のはたらきの大きな特徴です。

ではなぜ、阿弥陀様に我がいのちの全てをおまかせするのでしょうか。

ここで気を付けていただきたいのは、私が勝手にまかせているのではないということです。そうではなく阿弥陀様の方から私に「阿弥陀に全てまかせてお念仏しておくれ。必ずあなたを仏と成らせる阿弥陀のはたらきが、今届いているよ。」と、よび続け願い続けて下さっているのです。私はその阿弥陀様のよび声の通りに「おまかせいたします」と、このいのちを預けまかせていくだけなのです。

私がお願いしたから応じてくれたのではない、私が願うよりもはるか昔から私のことを願い続けて下さっていたお方が阿弥陀様なのです。いつも先手は阿弥陀様の側でした。

「正信偈」をお勤めする際この初めの句を読みながら、私が願う側ではない、私こそ願われている身であったと味わってみてはどうでしょうか。