9月法話

『正信偈(しょうしんげ)④』

日常のお勤め「正信偈(しょうしんげ)」④

 師である世自在王仏とともに諸仏方の世界をご覧になる中で、法蔵菩薩(阿弥陀様の修業時代のお名前)の救うべき者のすがたが見えてきました。仏法を聞こうともせず本来ならば救われるはずのない者、それはつまり私達自身のことでありますが、このような者こそ救わねばならないとお考えになったのです。

 しかしそのためには多くの問題がありました。師を含め先輩諸仏方の誰も成し遂げることが出来ていない全てのいのちある者を救う方法でなければなりません。つまりこれまでと同じ方法では通用しないということです。これまでの常識を超えた考え方・方法を用いなければ、とても救い取れないのが私達のすがたでありました。しかしこれまでにない困難な修行の道であることは明白であっても、法蔵菩薩の意志が揺らぐことがありませんでした。それほどの覚悟を持ってのご修行も、全てはこの私を救わんが為であったのです。

 救い難き者を救いとるためにはどうすればよいのか。これまでの常識を超えた方法とはいったい何であるのか。法蔵菩薩は具体的な救いの手段について、「五劫」と表現される果てしなく長い時間をかけて考え続けます。そしてついに、ご自身が目指すべき仏のすがたと具体的な救いの方法をはっきりされたのです。これこそが“南無阿弥陀仏”のお念仏による救いでありました。法蔵菩薩は師に向かい、この目指すべき仏のすがた・はたらきを細かく具体的に表し、必ずそのような仏に成りますという誓いを立てられます。48に分けて誓われた願いですから、阿弥陀仏(法蔵菩薩)の48願と言われます。

しかもこの教えは、私が頑張って仏を目指すのではなく、阿弥陀様(ここでは法蔵菩薩)の方で全ての準備を整えて下さるという、前代未聞の方法でした。

 これでようやく目指すべきもの、例えるならば完璧な設計図が完成しました。そして今度は、その設計図通りに完璧な建物を建てるように、誓い通り完璧な仏となるべく修行の生活が始まるのです。どれだけすばらしい設計図であっても、机上の空論では意味がありません。実際にその救いを完成するため、完璧なはたらきを持つ仏と成るため、法蔵菩薩は「」と表現されるような永遠とも呼べる時間をかけてついに修行を完成されたのです。

 このときはじめて、法蔵菩薩は自分自身を「阿弥陀仏」であると宣言されます。法蔵という修行者の名前を捨て、全てのいのちを救う仏としての歩みがここから始まったのです。

 以上が、『仏説無量寿経』に示される内容に沿って「正信偈」にまとめられた、阿弥陀様が仏と成られるまでのお話です。「正信偈」本文で言えば、

  … 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

までの部分です。

 私が簡単に称えることが出来る“南無阿弥陀仏”のお念仏は、阿弥陀様が届けて下さった救いのはたらきです。しかしこの完成には、これほどまでの阿弥陀様のご苦労があったのだと、親鸞聖人は味わっていかれました。それは言い換えれば、私自身がどれほど救われ難い身であるか、煩悩から離れることが出来ない身であるかを知らされる教えでもありました。