2月法話

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

 前回の最後に阿弥陀様のご本願の教え・はたらきを信じることこそ私の救われる唯一の道である、と書きましたが、少し説明が足らない部分がありましたのでここで補足させていただきます。

ここでいう“信じる”とは阿弥陀様の言葉をそのままに受け入れていくという意味です。私自身が信じるとか信じないとかではなく、「お念仏申しておくれ。必ず救うぞ。」という言葉を受け入れ、そのまま口に「南無阿弥陀仏」とお念仏申しているすがたのことです。浄土真宗ではこれを“信心”と呼びます。

そしてこの度の句からは、この信心を獲た者が受けることの出来る“ご利益(りやく)”が示されていきます。

さて、ここで“ご利益”と聞くとどのようなものを思い浮かべるでしょうか。一般的にご利益と言えば、いわゆる“家内安全”や“無病息災”といったものが多いのではないかと思います。しかし浄土真宗のご利益とはそのような“自分の願いを叶えてくれるもの”“自分の欲を満たすもの”とは全く異なるのです。

まず初めに示される利益の内容は、真実の信心をいただいたならば、煩悩を断ち切らないこの身のままで、さとりを得るのに間違いのない身とならせていただくというものです。

「煩悩」とは、自己中心的(自分勝手)な心から起こる生き方全般と言えます。私たちが生きる上で抱える様々な苦悩の根本であり、そして次に出てくる「涅槃」の反対語です。「涅槃」とは、煩悩から起こる苦悩より解放された安らかな状態といった意味で、仏教の究極的な目標、さとりの境地のことです。

「涅槃」とは煩悩が完全に無くなった状態を指しますから、「煩悩」がある限り「涅槃」に至るということはありえません。ですから、昔から仏教と言えば厳しい修行の中で自らの煩悩を断ち切り、涅槃というさとりの境地に近づいていくことが当たり前とされてきました。実際に、仏教を開かれたお釈迦様はこの実践によっておさとりを開かれました。しかし逆に言えば、人類の歴史上、厳しい修行によって煩悩を完全に断ち切ったお方はお釈迦様以外に誰もおられないのです。

この歴史的な事実を踏まえて考えてみても、私達凡夫と言われる生き方しか出来ない者には、煩悩を断ち切って涅槃に至ることは絶対に不可能であると言わざるをえません。その私に代わって、「五劫思惟(ごこうしゆい)」「兆載永劫(ちょうさいようごう)」と言われる修行を実践・完成して下さったのが阿弥陀様でありました。その行の成果の一切を「南無阿弥陀仏」のお念仏に凝縮し、今まさに私に届いて下さっているのです。

私は煩悩を断つことが出来ない凡夫の身ではあるけれど、阿弥陀様のはたらきによって、このいのち終わるときに煩悩が断ち切られ、必ず涅槃のさとりに至ることが出来る身と聞かせて頂くのです。

またここで注意していただきたいのは、涅槃に至るのはあくまでもいのち終わりお浄土へ往生してからです。今このいのちが終わるその時まで、私たちは凡夫の身のままです。しかし凡夫でありながら、必ず往生し、涅槃に至る事の出来る身と聞かせて頂き、日々お念仏とともに過ごしていける。そのような安心に包まれたいのちを歩んでいける。これがまず初めに示される、信心いただいたものの大きなご利益です。