3月法話

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

浄土真宗では“信心”という言葉をとても大切にします。浄土真宗で言う“信心”とは何かといえば、私が信じるとか信じないといった自分を中心とした考え方ではなく、阿弥陀様の「必ず仏と成らせるぞ」という声を聞いて「私はすでに必ず仏と成る身である」と、阿弥陀様のご本願のはたらきが込められたお心通りに受け入れておまかせしているすがた、決して疑うことのないすがたを“信心”と言うのです。

つまり自分で作り上げたものでなく100%阿弥陀様から賜るものなのです。自分で信じるものなどは、何かがきっかけで簡単に崩れてしまいますが、阿弥陀様から賜る信心は、何があっても決して揺らぐことなく、堅固で崩れることのない真実の信心・他力の信心です。

そして本願におまかせする信心を因として生まれゆくところは阿弥陀様のお浄土であり、必ず仏と成る世界であります。仏教は因果の道理を説きますが、同じ阿弥陀様からの信心を因とする私たちは、皆同じお浄土という果へと生まれていけるのです。もしも自身の築き上げた信心を因とするならば、その人の信じる度合いによって次に生まれていける世界(果)もバラバラになるはずです。

この度の御文は、信心という“因”を同じくする者は、向かうべき“果”も皆同じお浄土であるという事を示して下さいます。様々な人生を生きる人がいる中で、その生き様を問わず、皆が同じ浄土に必ず生まれていけるというのが、信心賜った者のいただく利益なのです。

御文はそれぞれ、「凡」は凡夫、「聖」は聖人(修行によってさとりへ近づく行者)、「逆」と「謗」はそれぞれ五逆と呼ばれる重大な罪を犯す者と、仏法を非難する者のことで、ともにこれは仏教では大きな罪を作る者のことです。

このように様々な人間がいる世界の様子を、ここでは様々な種類の河川に喩えています。大きいものや小さいもの、澄んだ水や濁った水、軟水や硬水等、一つとして同じものがない河川ではありますが、しかし最終的には同じ大海へと流れ込み、どのような水も一つの味・大海となっていきます。海はどのような川も差別なく受け入れてくれるのです。

同じように私達もまたそれぞれの人生を歩んではいますが、阿弥陀様より賜ったという同じ“因”を頂く者として、大海に喩えられる“果”である同じお浄土に生まれて仏と成らせていただくのです。私の生きざまを問わず、どのような命も差別なく受け止めて下さる真に平等の救いが今すでに届いているのです。

私自身が作り上げた信心ではなく、100%阿弥陀様より賜った他力の信心だからこそのご利益です。