4月法話

摂取心光常照護

 前回に続き、阿弥陀様から信心を賜った者へのご利益が示されます。この度の御文では、信心賜った者は阿弥陀様の光明から常におさめとられ(摂取)護られているというご利益です。

 ここで摂取という言葉が出てきます。これは光に喩えられる阿弥陀様の救いの特徴を表現された言葉です。親鸞聖人はこの“摂取”という言葉について、「ひとたびとりて永く捨てない事。真実に背き逃げ続ける私をどこまでも追いかけて抱きとること」と注釈されています。また“不捨”という言葉を合わせて“摂取不捨”とも表されます。

 阿弥陀様はどこまでも一方的に私を救い取ろうとはたらき続けて下さる仏様です。たとえ私が阿弥陀様のことを嫌がろうと興味無かろうと関係ありません。そのように背を向けて逃げ続けているような私をどこまでも追いかけ、抱きしめて下さるのが阿弥陀様であります。(摂取)

そして同時に、一度抱きしめたならばもう決して私を離すことはありません。(不捨)抱きとられた私は「念仏するものを必ずお浄土に往生させて仏と成らせるのだ」というはたらきから離れることはない、つまり阿弥陀様のはたらき一つで必ず仏と成らせていただくいのちを恵まれているのです。

阿弥陀様のはたらきは全ての生きとし生ける者、言い換えれば今この私にこそ向けられています。そして「どうか本願の通りに念仏する身となっておくれ、この声を聞いておくれ」と喚び続けてくださります。

そのような摂取不捨のお心は、昔から“親に抱きとられている赤子”でもって喩えられます。母親に抱かれている赤子は、どんな時でも決して捨てはしない母親に安心してその身を任せているものです。この喩えのように、我が身我がいのちを任せていけるものがあるという事は、そこに大きな安らぎ・安心があるという事です。

人生の中で様々な苦しみや悩みを抱えて生きていかねばならない私達です。人間という凡夫である限り、この苦悩から離れることはできません。しかしそのような苦悩の中にあっても、いつも温かく抱きしめて下さるように私を照らし、護って下さる阿弥陀様がおられるのです。

ナンマンダブツとお念仏申しながら、いつも私を抱きかかえ決して離さず一緒にいるよと喚び続けて下さる阿弥陀様の温かさ、この身を任せていける安心を感じていただきたいと思います。