5月法話

已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

 「無明」とは暗闇のことで、根源的な無知からくる愚かさ、真実に背を向けている私のすがたを表します。

前回の御文にあるように、信心を獲た人は阿弥陀様からの光に常に照らされ、護られているのです。ですから、この光によって私の無明の闇はすでに破られているはずなのですが、私自身にそなわる煩悩が邪魔をして、完全に澄み切った快晴の空のような心にはなれないのです。

この御文はそのことを喩えて表現されています。無明という暗闇の中にある私に、日光に喩えられる阿弥陀様からの光が届き、闇が破られ、夜が明けます。しかし夜が明けたからと言ってそこはすっきりと雲一つない快晴かと言えば、そうではないのです。その原因は雲や霧と喩えられる煩悩であり、あくまでも私自身の側に原因があるということです。

阿弥陀様から他力の信心を頂いたならば、煩悩から解放され、悩みもない人生がやってくるように思う方もおられるかもしれません。しかし生身の煩悩を抱える私ですから、そう簡単にはいきません。

ここでは決して消えることなく次々にあふれ出てくる私の煩悩の代表として、「」「」と表現しています。「貪愛」とは限りない執着の心、 「瞋憎」とは自分勝手な瞋り(怒り)や憎みの心のことです。そして先ほどの無知と合わせた3つ(貪・瞋・痴)を、仏教では煩悩の最も代表的・根源的なもの、同時に悟りをさまたげるものとして考えます。この煩悩をかかえながら生きる者を凡夫と呼ぶのです。

親鸞聖人も『一念多念文意』というお書物の中で、ご自身を凡夫と表現され、凡夫とはいのち終わるその瞬間まで決して煩悩から離れることが出来ない身なのだと示されています。

信心をいただき、阿弥陀様の光によって夜が明け、空が開かれても、煩悩の雲や霧が常にかかり続けているのが私の心です。そして悲しいことに、この煩悩から離れることが出来ないどころか、そもそも離れようとも思わないのが凡夫であり、他の誰でもないこの私のすがたなのです。