6月法話

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

 引き続き雲・霧と喩えられる私の煩悩と、日光と喩えられる阿弥陀様の教え・はたらきについて考えてみます。

前回最後に、「信心をいただき、阿弥陀様の光によって夜が明け、空が開かれても、煩悩の雲や霧が常にかかり続けているのが私の心です。」と書きました。雲や霧がかかったままであれば、結局光と喩えられる阿弥陀様の教えは私に届いていないのと同じではないかと思ってしまいますが、そうではありません。どれだけ分厚い雲や濃い霧の中にあっても、目の前が全く見えない暗闇という訳ではないからです。

たしかに私の煩悩は消えることがありません。しかし真実の信心をいただいた私にとって、この雲や霧といった煩悩は往生の妨げにはならないのだと聞かせて頂くのです。むしろ光が届いたからこそ、これまで気づかなかった自分の雲や霧・つまり煩悩の深さも見えてきたのです。そしてこの煩悩を捨てることのできない私の為に、阿弥陀様が届いて下さったのだと、教えに出遇えた慶びが起こるのです。

阿弥陀様の教えに出遇うまでは今自分がいる場所も、向かう方向すら分かっていなかった無明の中にある私でした。その私が教えに出遇い、信心をいただき、その光によって夜が明けて闇が破られた時、今度は自身の煩悩の深さを知らされます。どこまでいっても、真実を覆い隠すような煩悩を捨てられない生き方に気づかされます。しかし煩悩の雲霧の中にあっても、真実の教えを拠りどころとして阿弥陀様の声に導かれながら、お浄土という自身の進むべき方向に向かって歩いていけるのです。

もちろん煩悩を持っていますから、すぐにまた自分を中心に物事を考え、阿弥陀様の教えを忘れてしまうのが私のすがたです。しかしそんな時でも、阿弥陀様の声を聞きながら「また道をはずれている私でした」 と、そのたびに気づかされ軌道修正しながら雲霧の中を歩んでいけるのです。

無明の暗闇の中にあったような根本的な迷いとは違う生き方が開けてくるのです。