10月法話

弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

 「正信偈」前半部分は、お釈迦様のお説き下さった『仏説無量寿経』の言葉を通して阿弥陀様のおはたらきを讃えられた御文でした。この度はその前半最後の部分です。

ここまで、阿弥陀様の他力の信心をいただいた者が受ける様々な利益を示されてきました。しかもそれは、善人も悪人も関係なく、全ての者が平等に救われていくはたらきであると説かれてきたのですが、しかしここにきて、信心を受け入れることは難しい(難中の難)と説かれます。これはどういうことでしょうか。

これはお念仏という「行」はこの上なく易しい行ではあるけれども、それを信受すること(信)は難しいという事です。つまり素直に受け入れることが出来ない私自身の方に問題があるのです。

私たちは常に自分を中心に物事を見て考えています。常に正しいのは私自身であり、悪いのは私以外だと考えてしまいます。例えば私にとっての“善いこと”“悪いこと”とは何でしょうか。このような言葉があります、

いい人 いい雨 いい天気 みんな私中心

昨日までは自分の中で“いい人”であっても、ふとしたことがきっかけで顔も見たくなくなり、真夏の降水量が少ない時期に降る雨は“いい雨”と思っても、それが一週間も続けば鬱陶しくなる。その時の自分の心の状態によって善悪の価値がコロコロと変わっているのが私達です。そしてそのような自分を常に正当化しているのが私達です。

 自覚もなく自分中心の生き方をしている私を「邪見・憍慢の悪衆生」と示され、そのように自分こそ正しいと思う生き方をしている者にとってはこのはたらきを素直に信受することは決して出来ないと示されるのです。

ではどうすれば良いのか、自分中心の心・煩悩を無くせば良いのでしょうか。理屈はそうかもしれませんが、この私はそのような生き方は出来ません。

阿弥陀様は私のすがたを全て見抜かれ、煩悩を抱えたままの私を救いとるはたらきを完成されました。だからこそ、煩悩を無くすのではなく、煩悩から抜け出すことの出来ない我が身であるということを否定的に把握し、阿弥陀様の「必ず救う」のはたらきをただ素直に信受していくしか私が救われる道はないのです。

本来信じることが難しい、いや不可能であるはずの救いの法を今私が頂いているのです。ですから私が自分でこの法を、阿弥陀様のおはたらきを理解して信じたのではない、これすらも阿弥陀様に“信ぜしめられた”のであると知らされるのです。救われ難い原因は全て私の側にあった、しかしそのことすらも全て見抜かれ、準備万端で私に届いて下さるのが南無阿弥陀仏の他力のおはたらきなのです。