1月法話

悉能摧破有無見 宣説大乗無上法

 前回の御文の中で、「悉能摧破有無見」の部分のお話をしていませんでしたので、今回はこの御文からお話させていただきます。

 龍樹菩薩の示された教え・ご功績を挙げる中、まず初めに「悉くよく有無の見を打ち破る」と示されています。これは前回書きました、お釈迦様が予言されたと伝わるお経の中で言われている功績です。

 有に執着する考え方を有見、無に執着する考え方を無見と呼び、合わせて「いずれか一方に執着した、かたよったものの見方」のことを「有無の見」と表現されています。

もう少し具体的に言いますと、例えば有見とは、このいのちが終わった後に魂と呼ばれるような何か永遠不滅のものが残るといった考え方のことです。霊魂的なものが残ると考えるならば、今度はその死者を粗末に扱うことで祟りが起こるという考えに至るのではないでしょうか。このように霊魂が有るという考えにとらわれると、仏事は全て、死者を鎮めるための儀式となってしまいます。そうやって霊魂といったものが有るという前提で極端に死者を恐れ、「○○をしなければ不幸になる」といって、目に見えない世界におびえていく生き方を、有にかたよった考え方というのです。

しかし阿弥陀様の本願のはたらきによって故人は仏と成っていかれたのですから鎮める必要もないですし、そもそも仏教では魂・霊魂といったものを認めないのです。

次に無見の例えとしては、有見とは逆に「生きている時が全て。人は死んだら終わり、無になるだけ。」「人は死ねばゴミになる」といった極端な考え方です。この場合、目に見えない世界は全て嘘であり、自分で見えるものしか信じないという風な生き方でしょう。このような考え方は現代では案外多いように思われます。

しかし、いざ自分の身内や親しい方との別れのご縁に遇った時、そんな簡単に割り切ることが出来るでしょうか。たとえ普段はそう考えていても、大切な方がいのち終えた時、その瞬間から単なる物のように扱うといったことなどなかなか出来ないのが私達です。

親鸞聖人は私のいのちは阿弥陀様の本願のはたらきによって仏と成らせていただくと示して下さいました。決して、死んで終わりとかゴミになるといういのちではないのです。

また、そもそも様々なご縁を原因としてこのいのちが生まれ、その結果がまた次のいのちの因となって続いていくのが仏教の説く因果の道理ですから、私のいのちだけが因果の道理からはずれて単に無となり終わっていくといこともないのです。

長くなりましたが、このような有見・無見のかたよったものの見方にとらわれてしまうのが私の迷いのすがたであります。そのような間違った見方・生き方を打ち破り、尊い大乗の教えであるお念仏の教えを伝えて下さったのが、龍樹菩薩の功績であるとして、まず最初に示されているのでした。